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5月の出来事

5月に発生した日本や世界の歴史的な出来事覚えておきたい出来事をご紹介します。

今日は何の日(366日カレンダー)

5月の歴史的な出来事

5月に発生した日本や世界における歴史的な出来事の一覧です。

日付をクリックすると各日の詳細ページで出来事の詳細がご覧いただけます。

5月の出来事一覧
月日 出来事
5月1日 イングランドとスコットランドが合同し、グレートブリテン王国が成立(1707年)
5月2日 スペインのテロ組織「バスク祖国と自由」が解散を宣言(2018年)
5月3日 江戸城が新政府軍へ無血で明け渡される(1868年)
5月4日 スペルガの悲劇 – 墜落事故によりACトリノの選手18人を含む31人が死亡(1949年)
5月5日 アメリカで日本軍の風船爆弾が爆発して6人が死亡(1945年)
5月6日 オランダがインディアンからマンハッタン島を購入(1626年)
5月7日 客船ルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、米が第一次世界大戦参戦へ(1915年)
5月8日 富山県神通川のイタイイタイ病を公害病に認定(1968年)
5月9日 北海道近海でメイストームが発生し犠牲者361人(1954年)
5月10日 アメリカで世界初の母の日を開催(1908年)
5月11日 大津事件 – 来日中のロシア皇太子が警衛の巡査に切りつけられる(1891年)
5月12日 客船オリンピック号がドイツ潜水艦U-103を体当たりで沈める(1918年)
5月13日 ファティマの子どもたちの前に聖母マリアが現れる(1917年)
5月14日 イスラエルが建国宣言を行い、第一次中東戦争が勃発(1948年)
5月15日 五・一五事件 – 海軍青年将校が犬養毅首相を殺害(1932年)
5月16日 田部井淳子が女性初のエベレスト登頂に成功(1975年)
5月17日 最初の屯田兵が北海道に入植(1875年)
5月18日 アメリカ連邦最高裁が「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする判決(1896年)
5月19日 蝦夷(えみし)の族長アテルイが坂上田村麻呂に降伏(802年)
5月20日 世界初のうま味調味料「味の素」を発売(1909年)
5月21日 津山事件 – 死者30名の大量殺人事件が発生(1938年)
5月22日 観測史上最大のチリ地震が発生(1960年)
5月23日 海賊船の船長キャプテン・キッドが絞首刑に処される(1701年)
5月24日 死者・行方不明者144名の十勝岳噴火が発生(1926年)
5月25日 『スター・ウォーズ』第1作がアメリカで公開(1977年)
5月26日 謎の孤児カスパー・ハウザーが発見される(1828年)
5月27日 対馬沖で日本海海戦(日露戦争)の火ぶたが切られる(1905年)
5月28日 インディアン移住法が成立 – 涙の道へ(1830年)
5月29日 コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国滅亡(1453年)
5月30日 テルアビブ空港乱射事件 – 日本赤軍が24人を殺害(1972年)
5月31日 太平洋戦争 – 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(1942年)

5月の覚えておきたい出来事

5月に発生した日本や世界の代表的な出来事をご紹介します。

5月1日の出来事

5月1日の出来事
イングランドとスコットランドが合同し、グレートブリテン王国が成立(1707年) 1707年5月1日、イングランド王国とスコットランド王国が合同し、「グレートブリテン王国」が成立しました。
グレートブリテン島全体を支配した歴史上最初の国家となり、現代まで続く連合王国(イギリス)の基盤となっています。
その後、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同して「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立しました。
1922年にアイルランド島の南部26州が分離すると、1927年に「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と改称し、これが現在の国号となっています。
グレートブリテン王国(Wikipedia)
第1回万国博覧会がロンドンで開幕(1851年) 1851年5月1日、イギリスのロンドンで世界初となる万国博覧会が開幕しました。
会場となったロンドンのハイド・パークには、当時の最新技術である鉄とガラスを駆使してつくられた巨大な建物「水晶宮(クリスタル・パレス)」が建設され、建物自体が最大の目玉展示物となりました。
イギリスはこの万博で、18世紀末に始まった産業革命による圧倒的な工業力を世界に知らしめました。
ロンドン万国博覧会 (1862年)(Wikipedia)
皇太子徳仁親王が天皇に即位し、令和時代の幕開け(2019年) 2019年(令和元年)5月1日、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、令和時代が幕を開けました。
高齢による衰えで象徴の務めを果たせなくなるとして前日4月30日に退位された第125代天皇明仁陛下は上皇となられました。
明仁から徳仁への皇位継承(Wikipedia)

5月2日の出来事

5月2日の出来事
超大型サイクロンがミャンマーに上陸(2008年) 2008年(平成20年)5月2日、超大型のサイクロン「ナルギス」がミャンマーに上陸しました。
ミャンマー南西部を中心に大雨や洪水、強風による被害が発生し、約14万人が犠牲となりました。
サイクロン・ナルギス(Wikipedia)
スペインのテロ組織「バスク祖国と自由」が解散を宣言(2018年) 2018年(平成30年)5月2日、スペインのバスク地方の分離独立を主張してテロを重ねてきた武装組織「バスク祖国と自由(ETA)」が解散を宣言しました。
ETAは、スペインのフランコ独裁政権が行ったバスク語禁止などの抑圧に反発する形で1959年に結成され、テロ活動によって政治家や警官、市民ら800人以上の命を奪いました。
スペイン当局による摘発強化で弱体化が進み、2011年には武装闘争の最終的な停止を宣言していました。
バスク祖国と自由(Wikipedia)

5月3日の出来事

5月3日の出来事
江戸城が新政府軍へ無血で明け渡される(1868年) 1868年5月3日、江戸幕府の本拠・江戸城が新政府軍へ明け渡されました。
1867年11月に最後の将軍・徳川慶喜が朝廷へ政権を返上(大政奉還)。しかし、翌年1月に新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが勃発し、旧幕府軍が敗北。
徳川慶喜は大阪城を脱出して江戸へ敗走。新政府軍は慶喜追討のため、江戸に向けて進撃。
1868年4月5日、6日の両日にわたり、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟が会談し、徳川慶喜の助命と江戸開城を交換条件とする協定が成立。新政府軍の江戸城総攻撃は中止となりました。
江戸城の明け渡しが行われると、徳川慶喜は寛永寺から新たな謹慎の地である水戸へ出発しました。
江戸開城(Wikipedia)
日本国憲法が施行される(1947年) 1947年(昭和22年)5月3日、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とする「日本国憲法」が施行されました。
当日は皇居前広場で記念式典が開催され、各地で記念講演会などが催されました。
また、新しい憲法の施行に伴い、「皇室典範」「国会法」「地方自治法」などの必要な法律の制定、改正が行われました。
日本国憲法(Wikipedia)
三河島事故 – 列車三重衝突事故で死者160人(1962年) 国鉄常磐線・三河島駅構内で「下り貨物列車」「下り電車」「上り電車」の三重衝突事故が発生し、死者160人、負傷者 296人の大惨事となりました。
最初の衝突後、下り電車の乗客の多くが、上り線側の線路に降り、三河島駅に向って線路上を歩き始めたため、上り電車に次々とはねられ、多くの犠牲者を出すことになりました。
三河島事故(Wikipedia)

5月4日の出来事

5月4日の出来事
ヘイマーケット事件 – メーデーの起源(1886年) 1886年(明治19年)5月1日、アメリカの労働者がシカゴを中心に8時間労働制を求めてストライキを行いました。
その直後の3日にストライキを行っていた労働者4人が警官により射殺される事件が発生しました。
これを受けて、5月4日にシカゴ市内のヘイマーケット広場で抗議集会が開かれました。
解散を求める警察側との間で爆発物を使用した衝突が発生し、警察側7人、労働者側4人の犠牲者が出ました。
その後の裁判で労働者側4人が証拠もないままに警官殺害の首謀者とされて死刑になりました。労働者側はこれを忘れないように、5月1日を労働者の日として毎年集会を開くことにしました。これがメーデーの起源とされています。
ヘイマーケット事件(Wikipedia)
スペルガの悲劇 – 墜落事故によりACトリノの選手18人を含む31人が死亡(1949年) 1949年(昭和24年)5月4日、イタリア・トリノ郊外の丘陵地「スペルガの丘」に旅客機が墜落し、乗客乗員31人全員が犠牲となりました。
その中にはイタリアのプロサッカークラブ、ACトリノの選手18人と監督・スタッフ5人が含まれていました。
リーグ5連覇も目の前という状況でトップチームを丸ごと失ったACトリノは、リーグ戦の残りの4試合をユースチームで戦うことになりました。ACトリノ に敬意を表した相手クラブもユースチームで対抗したためACトリノが優勝を果たしましたが、次の優勝までは27年の月日を要しました。
スペルガの悲劇(Wikipedia)

5月5日の出来事

5月5日の出来事
ニューヨークのカーネギー・ホールが開館(1891年) 1891年(明治24年)5月5日、アメリカ・ニューヨーク市マンハッタンに建設されたカーネギー・ホールが公式に開館しました。
カーネギー・ホールは、鉄鋼王と称されるアメリカの実業家・慈善家アンドリュー・カーネギー(1835~1919)により建てられたコンサートホールです。
カーネギー・ホールは、クラシック、ポピュラー、ジャズなど、ジャンルを超えた「音楽の殿堂」となっており、かつてはニューヨーク・フィルの本拠地でもありました。
カーネギー・ホール(Wikipedia)
アメリカで日本軍の風船爆弾が爆発して6人が死亡(1945年) 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月5日、アメリカ・オレゴン州ブライで木に引っかかっていた日本軍の風船爆弾に触れたピクニック中の民間人6人が爆死しました。
この風船爆弾は、和紙とこんにゃく糊で作った直径約10メートルの大型風船に爆弾を吊るし、ジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃する兵器です。
300個程度が北アメリカ大陸に到達。被害は小さな山火事2件、停電1件程度とされていますが、アメリカ政府は、日本に作戦失敗と思わせるため、風船爆弾による被害を隠しました。
そのため、民間人が風船爆弾と知らずに触れてしまい6人が亡くなりました。彼らは第二次世界大戦中にアメリカ本土で敵の攻撃で死亡した唯一の犠牲者となりました。
風船爆弾(Wikipedia)

5月6日の出来事

5月6日の出来事
ローマ劫掠(1527年) 1527年5月6日、神聖ローマ皇帝カール5世の皇帝軍とドイツ傭兵隊がローマに侵攻し、教皇領のローマで手当たり次第に略奪、暴行殺人、破壊を行いました。
ローマ攻撃の原因は、ローマ教皇がフランス王フランソワ1世と手を結んだことへの懲罰でした。
カトリックを憎むルター派のドイツ傭兵隊らによるローマの破壊はルネサンスにも打撃をあたえました。
ローマ劫掠(Wikipedia)
オランダがインディアンからマンハッタン島を購入(1626年) 1626年5月6日、オランダがアメリカ大陸のインディアンからマンハッタン島を購入し、ニューアムステルダムと命名しました。
この際、マンハッタン島を60ギルダー相当(現在の価値で1000ドル程度)の装飾品と交換したともいわれます。
その後、1664年にイギリス軍がニューネーデルラントを占領。イングランド王チャールズ2世が弟のヨーク公(後のジェームズ2世)にこの地を与えたことから、ニューヨークと改称されました。
現在のニューヨーク市はアメリカ最大の都市であり、ニューヨーク市を中心に形成する都市圏の人口は約2000万人にのぼります。
ニューアムステルダム(Wikipedia)

5月7日の出来事

5月7日の出来事
樺太・千島交換条約を締結(1875年) 1875年(明治8年)5月7日、日本とロシアとの間で「樺太・千島交換条約」が調印されました。
これにより、樺太(サハリン)全島がロシア領に、千島列島はすべて日本領となり、幕末以来の懸案であった日露間の領土問題が確定しました。
樺太・千島交換条約(Wikipedia)
客船ルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、米が第一次世界大戦参戦へ(1915年) 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)5月7日、イギリスに向かっていた豪華客船ルシタニア号がドイツの潜水艦U20に無警告で撃沈され、1198人の乗客乗員が犠牲となりました。
犠牲者の中にはアメリカ人128人が含まれており、当時まだ参戦していなかったアメリカの反独感情が高まりました。
ルシタニア事件に対する非難の声が強まると、ドイツは無制限潜水艦作戦を一旦停止。しかし、戦争が長期化すると、ドイツは形勢を逆転するため、無制限潜水艦作戦を1917年2月から再開。
これを受けて同年4月にアメリカがドイツに宣戦布告。これがドイツ敗戦の大きな要因となりました。
ルシタニア (客船)(Wikipedia)
日本初のプロボクシング興行が靖国神社相撲場で開催される(1922年) 1922年(大正11年)5月7日、日本初のプロボクシング興行「日米拳闘大試合」が渡辺勇次郎のプロモートにより靖国神社の屋外相撲場で開催されました。
渡辺勇次郎は1906年に中学を中退して渡米。アメリカでボクシングを学び、1910年にカリフォルニア州ライト級王者に勝利し、タイトルを手にしました。
1921年、31歳のときに帰国し、日本初の本格的ボクシングジムを創立。「日本ボクシングの父」と称されます。
渡辺勇次郎(Wikipedia)

5月8日の出来事

5月8日の出来事
善光寺地震 – 死者1万人(1847人) 江戸末期の1847年5月8日22時頃、現在の長野市を震源とするマグニチュード7.4の善光寺地震が発生しました。
直下型地震で、長野盆地一帯に多大の被害をもたらしました。この年は善光寺の御開帳と重なったことから参拝客も多数犠牲になり、死者は1万人に達したとされています。
善光寺地震(Wikipedia)
プレー火山噴火 – 火砕流で町が全滅(1902年) 1902年(明治35年)5月8日、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山が大噴火。この噴火で発生した火砕流によって約8キロメートル離れた港町サン・ピエールが瞬時に全滅し、約2万8000人が犠牲になりました。
これが火山学的に初めて観測された火砕流となりました。
プレー山(Wikipedia)
ドイツが第二次世界大戦の降伏文書に調印(1945年) 1945年(昭和20年)5月8日、ドイツが第二次世界大戦の降伏文書に調印し、連合国がヨーロッパにおいて勝利しました。
これを記念して、5月8日をヨーロッパ戦勝記念日「VEデー(Victory in Europe Day)」として祝っています。
ロシアなどの旧ソ連諸国では時差のため5月9日を戦勝記念日としています。
ヨーロッパ戦勝記念日(Wikipedia)
富山県神通川のイタイイタイ病を公害病に認定(1968年) イタイイタイ病は、富山県の神通川流域で発生した日本の四大公害病(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)の一つです。患者が「イタイ、イタイ」と苦しんだことからこの名が付けられました。
この病気は、神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムが川や農地を汚染し、水や米などを通じて体内に入ることで引き起こされました。
イタイイタイ病が新聞で紹介されると、研究者らがその原因についての調査をはじめ、1968年(昭和43年)5月8日、国はイタイイタイ病が公害病であり、その原因は神岡鉱山から出たカドミウムであると認めました。
イタイイタイ病(Wikipedia)

5月9日の出来事

5月9日の出来事
北海道近海でメイストームが発生し犠牲者361人(1954年) 1954年(昭和29年)5月8日に黄海で発生した低気圧は発達しながら日本海を北東進し、5月9日夜から10日にかけて、北海道近海で漁船の集団遭難をもたらしました。
北海道南東海域では9日午後9時には平均風速が20~25メートル、波高5~7メートルと大荒れの天気になりました。無線設備を持たない小型のサケ・マス漁船群は避難するタイミングを逃し、348隻もの漁船が沈没。361人が犠牲となりました。
この遭難事故が「メイストーム(May storm)」という言葉の語源になりました。
メイストーム(Wikipedia)
伊豆半島沖地震が発生し、死者30人(1974年) 1974年(昭和49年)5月9日8時33分頃、伊豆半島沖を震源とするマグニチュード6.9の伊豆半島沖地震が発生しました。
静岡県南伊豆町の石廊崎で震度5を観測。死者30人、家屋の全半壊は300棟以上にのぼるなど大きな被害を出しました。
特に震源に近い南伊豆町で被害が大きく、地すべりや落石による被害もみられました。津波は静岡県内で高さ10cm程度が観測されています。
伊豆半島沖地震(Wikipedia)

5月10日の出来事

5月10日の出来事
インド大反乱 – イギリス領インド帝国成立へ(1857年) 1857年5月10日、インドでイギリス東インド会社の支配に反発したシパーヒー(セポイともいう、東インド会社が編成したインド人傭兵)が蜂起しました。
これに農民や旧王侯、旧地主なども参加して、全インドに広がる反英闘争に発展しました。
イギリスは本国軍を投入して反乱を鎮圧。イギリスはムガル帝国の君主を廃し、イギリス東インド会社を解散させ、1858年8月2日にイギリス王室が直接統治するイギリス領インド帝国を成立させました。初代インド皇帝にはイギリスのヴィクトリア女王が就任しています。
インド大反乱(Wikipedia)
アメリカで世界初の母の日を開催(1908年) アン・ジャービス(1832~1905)は、アメリカ南北戦争中、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するための活動を行いました。
アン・ジャービスの死後、娘のアンナは亡き母をしのんで、1907年5月12日に教会で記念会を開催し、母の好きだった白いカーネーションを捧げました。これが「母の日」の起源とされます。
アンナの母への想いに人々は感動し、1908年(明治41年)5月10日に同教会に470人の生徒と母親たちが集まり最初の「母の日」を祝いました。アンナは参加者全員に白いカーネーションを贈り、カーネーションが母の日のシンボルとなりました。
1914年に「母の日」がアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められました。
日本でも1949年ごろから母の日が行われるようになりました。
母の日(Wikipedia)

5月11日の出来事

5月11日の出来事
大津事件 – 来日中のロシア皇太子が警衛の巡査に切りつけられる(1891年) シベリア鉄道の起工式典に向かう途中に来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(後の皇帝ニコライ2世)が、1891年(明治24年)5月11日に滋賀県大津で警衛を担当していた巡査に切りつけられ負傷しました。
まだ小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたことから、事件の報復にロシアが日本に攻めてくると日本中が騒然となりました。
犯行の動機は、皇太子の来日が日本侵略の準備であるという噂を信じたためともいわれます。
日本政府は司法当局に死刑を適用するよう働きかけましたが、裁判で犯人は無期懲役となりました。行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めたことから近代日本法学史上重要な事件とされています。
大津事件(Wikipedia)
満州国とモンゴルの国境線をめぐって武力衝突 – ノモンハン事件へ(1939年) 1939年(昭和14年)年5月11日、満州国とモンゴル人民共和国との国境付近にあるノモンハンで、国境線をめぐって両国警備隊が武力衝突。
満州国を支配していた日本軍とモンゴルを支援するソ連軍による大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」へと発展しました。
日本軍(関東軍)は中央の参謀本部の方針を無視して独断でソ連領内へ戦線を拡大。しかし、戦車部隊と航空機を連携させる近代戦を展開したソ連軍に対し、歩兵中心の白兵戦で挑んだ日本軍は壊滅的な打撃を受けて大敗。
同年9月1日にドイツのポーランド侵入により第二次世界大戦が開戦。独ソ不可侵条約の締結による国際情勢の急転を受けて、日本とソ連は9月16日に休戦協定を締結しました。
ノモンハン事件(Wikipedia)
紫雲丸沈没 – 多くの修学旅行生らが犠牲に(1955年) 1955年(昭和30年)5月11日6時56分頃、国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」が、濃霧の瀬戸内海で貨物連絡船と衝突して沈没。168人が犠牲となりましたが、その多くが修学旅行中の小中学生でした。
この事故を契機として、瀬戸大橋架橋の機運が高まり、事故から33年後の1988年(昭和63年)4月に瀬戸大橋が開通しました。
紫雲丸事故(Wikipedia)
日本人初のエベレスト登頂に成功(1970年) 1970年(昭和45年)5月11日、日本山岳会エベレスト登山隊の松浦輝夫と植村直己が日本人初のエベレスト(標高8848メートル)登頂に成功しました。
ちなみにエベレスト世界初登頂は、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイが1953年5月29日に達成しています。
松浦輝夫(Wikipedia)

5月12日の出来事

5月12日の出来事
客船オリンピック号がドイツ潜水艦U-103を体当たりで沈める(1918年) 1911年(明治44年)に就航したイギリス船籍の客船オリンピック号は、前年4月に氷山に衝突して沈没したタイタニック号の姉妹船です。
第一次世界大戦(1914~1918)が勃発すると、オリンピック号はイギリス軍に徴用され、アメリカ軍部隊の輸送任務につきました。
1918年(大正7年)5月12日、オリンピック号がドイツ潜水艦U-103から雷撃を受けると、船長は雷撃を回避した後に巨大な船体による体当たり攻撃で反撃。U-103は船体を2つに破断されて沈没しました。
この行動には批判もありましたが、船長はアメリカ政府から殊勲十字章を授与されました。
オリンピック (客船)(Wikipedia)
立川6億円強奪事件が発生(2011年) 2011年(平成23年)5月12日午前3時過ぎ、東京都立川市にある警備会社の営業所に、2人組の男が侵入。男性警備員に暴行を加え、現金約6億円を金庫室から奪って逃走しました。
同営業所には多摩地域の郵便局に配送するため多額の現金が保管されていました。この強奪金額は国内犯罪史上最高額です。
同年6月上旬に暴力団関係者の実行犯2人を逮捕。現金約2億4000万円を回収しましたが、残り約3億6000万円が未回収です。
その後の捜査で組織的犯行の可能性が強まり、計23人が強盗致傷罪等で逮捕・起訴されました。
立川6億円強奪事件(Wikipedia)

5月13日の出来事

5月13日の出来事
ファティマの子どもたちの前に聖母マリアが現れる(1917年) 第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月13日、ポルトガルの小さな町ファティマで、3人の羊飼いの子どもたちの前に聖母マリアが現れました。
聖母マリアは毎月13日に同じ場所へ会いに来るようにいい、子どもたちは聖母から様々なメッセージを託されました。
そのメッセージは「死後の地獄の実在」「大戦争の終焉と勃発(第一次世界大戦はまもなく終わること)」「ファティマ第三の秘密(1960年までは非公開にすること)」などでした。
聖母マリアの最後の出現となった1917年10月13日、聖母マリアを一目見ようと集まった7万人以上の群衆の前で太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返したといいます(太陽の奇跡)。
1930年(昭和5年)に現地の司教によって聖母マリアの出現が公認されました。現在、ファティマには壮麗な聖堂が立ち、ローマ・カトリックの巡礼地として知られています。
ファティマの聖母(Wikipedia)
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂(1981年) 1981年(昭和56年)5月13日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がバチカンのサン・ピエトロ広場でトルコ人マフィアから銃撃されました。
銃弾は2発命中し教皇は重傷を負いましたが、奇跡的に一命を取り留めました。事件発生日の5月13日は「ファティマの聖母」出現の記念日であったため、ヨハネ・パウロ2世は「聖母が弾をそらしてくださいました」と語っていたそうです。
ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)(Wikipedia)

5月14日の出来事

5月14日の出来事
紀尾井坂の変 – 大久保利通の暗殺(1878年) 1878年(明治11年)5月14日、東京・紀尾井町で内務卿・大久保利通が士族6人によって暗殺されました。
鹿児島士族が起した西南戦争(1877年)で西郷隆盛が敗北、自決すると、大久保は岩倉具視と結び、内務省を中心に独裁体制を敷きました。これに対して不平士族らは不満を募らせていました。
実行犯の中心人物であった石川県士族島田一良も西南戦争に呼応しようとして果たさなかった不平士族でした。
この事件の結果、政局の主導権は薩摩閥から伊藤博文ら長州閥に移りました。
紀尾井坂の変(Wikipedia)
イスラエルが建国宣言を行い、第一次中東戦争が勃発(1948年) 中東のパレスチナは、第一次世界大戦(1914~1918)後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年までイギリス帝国の委任統治領となりました。
第二次世界大戦(1939~1945)後、パレスチナのユダヤ人とアラブ人との対立は収拾がつかない状態になり、イギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題を国連に委ねました。
国連はユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案を採択しました。
これを受けてユダヤ人は、1948年(昭和23年)5月14日にイスラエル独立宣言(建国宣言)を行いました。しかし、イスラエル建国を認めない近隣アラブ諸国は宣戦を布告し、第一次中東戦争(1948~1949)が勃発しました。
イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めましたが、現在に至るまでパレスチナ問題は解決のめどが立っていません。
イスラエル独立宣言(Wikipedia)
ソ連など東欧8か国がワルシャワ条約に調印(1955年) 1955年(昭和30年)5月14日、当時の東欧8か国(ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、チェコスロバキア)の間で「ワルシャワ条約」が調印されました。
この条約にもとづいてソ連を盟主とした軍事同盟「ワルシャワ条約機構」をつくり、北大西洋条約機構(NATO)に対抗しました。
ワルシャワ条約 (1955年)(Wikipedia)
信楽高原鉄道の列車衝突事故で死者42人(1991年) 1991年(平成3年)5月14日10時35分頃、滋賀県の信楽高原鉄道・信楽線で、上り普通列車と下り快速列車が正面衝突。双方の先頭車両は大破し、42人が死亡、614人が負傷しました。
当時、信楽焼の産地の信楽町では陶芸のイベントが開かれ、大勢の客が乗車していたため被害が大きくなりました。
事故の発端は信号機の不具合で、信楽高原鉄道が安全確認に関する基本ルールを守らなかったことが事故の原因とされています。
信楽高原鐵道列車衝突事故(Wikipedia)

5月15日の出来事

5月15日の出来事
五・一五事件 – 海軍青年将校が犬養毅首相を殺害(1932年) 1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校らが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害しました。
事件の背景として、1929年(昭和4年)の世界恐慌で失業者が増加し、農村も貧困により疲弊する一方、財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がったことで、問題に対処できない政党政治が敵視されるようになったことがあります。反乱事件を起こした将校らは、軍国主義的国家改造を行おうとしていました。
事件後、軍部はこれを政治的進出に利用。政党政治(衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になる)は崩壊し、第二次世界大戦後まで復活することはありませんでした。
裁判では、政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなりました。これが二・二六事件(1936年)を後押ししたといわれています。
五・一五事件(Wikipedia)
沖縄がアメリカから日本に返還される(1972年) 1972年(昭和47年)5月15日、前年6月に日米間で調印された「沖縄返還協定」が発効し、戦後27年間アメリカの統治下にあった沖縄が日本に復帰しました。
日本は1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言を受諾。9月2日に降伏文書の調印式が行われ、日本は連合国軍に占領されました。
しかし、沖縄県、奄美群島(鹿児島県)、小笠原諸島(東京都)は日本政府から行政上分離され、アメリカに占領されました。
1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復しましたが、奄美群島(1953年12月に復帰)、小笠原諸島(1968年6月に復帰)、沖縄県(1972年5月に復帰)は、引き続きアメリカに統治されました。
沖縄返還(Wikipedia)
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕(1993年) 1993年(平成5年)5月15日、日本プロサッカーリーグであるJリーグが10クラブで開幕しました。
Jリーグの初年度の開幕戦はヴェルディ川崎対横浜マリノス戦が国立競技場で行われ、1対2で横浜マリノスが勝利しました。
日本プロサッカーリーグ(Wikipedia)

5月16日の出来事

5月16日の出来事
十勝沖地震が発生し、52人が死亡(1868年) 1968年(昭和43年)5月16日9時49分頃、青森県東方沖を震源とするマグニチュード7.9の十勝沖地震が発生しました。
北海道、青森県、岩手県で震度5の揺れを観測し、三陸海岸では最大5メートルの津波が押し寄せました。この地震で52人が犠牲になりました。
十勝沖地震 (1968年)(Wikipedia)
田部井淳子が女性初のエベレスト登頂に成功(1975年) 1975年(昭和50年)5月16日、登山家の田部井淳子が女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功しました。
田部井氏は大学卒業後、社会人の山岳会で本格的に登山を開始。1969年に女性だけの海外遠征の登山隊を作り、女性には登れないという世間の偏見に向き合いながらエベレスト登頂に挑戦しました。
エベレスト登頂後も女性登山家の草分けとして登山活動を続け、1992年(平成4年)に世界七大陸の最高峰をすべて登頂した世界最初の女性となりました。
田部井淳子(Wikipedia)
中村橋派出所警官殺害事件 – 拳銃を奪うため警官2人を刺殺(1989年) 1989年(平成元年)5月16日2時50分頃、東京・練馬区で元自衛官の男が拳銃を奪うため派出所を襲撃して警察官2人をサバイバルナイフで刺殺しました。
犯人は銀行強盗をするために警官の拳銃を狙っていましたが、被害者らの抵抗によって拳銃強奪は未遂に終わりました。
1998年(平成10年)に犯人の死刑が確定しましたが、犯行時の責任能力を問題として再審を請求しています。
中村橋派出所警官殺害事件(Wikipedia)

5月17日の出来事

5月17日の出来事
すずかけ協定に署名し、ニューヨーク証券取引所誕生へ(1792年) 1792年5月17日、アメリカのニューヨーク・ウォール街のスズカケノキの下で、24人の株式仲買人が株式取引に関する協定(すずかけ協定)に署名しました。
これが後のニューヨーク証券取引所に発展しました。
すずかけ協定(Wikipedia)
最初の屯田兵が北海道に入植(1875年) 1875年(明治8年)5月17日、最初の屯田兵が北海道に入植しました。
明治維新後、旧幕府側の武士の多くは貧窮しました。そのような士族の救済と北海道の開拓、警備を目的に、明治政府によって北海道各地に移住・配備された人たちのことを屯田兵といいます。
屯田兵は、平時は農耕に従事し、戦時に兵役に就くため、西南戦争(1877年)、日清戦争(1894年~1895年)、日露戦争(1904年~1905年)に参加しました。
後期屯田の1890年(明治23年)からは族籍に関係なく、平民からも屯田兵を募集するようになり後期は平民がほとんどでした。
1904年(明治37年)、北海道の開拓が進展し、北海道の人口も徴兵制で兵士を集めることが可能な水準に達しつつあったため、屯田兵制度は廃止されました。
屯田兵(Wikipedia)
ブラウン対教育委員会裁判 – 分離すれど平等を覆す(1954年) 1954年(昭和29年)5月17日、アメリカ最高裁における「ブラウン対教育委員会裁判」の判決で「人種分離した教育機関は本来不平等であり、アメリカ合衆国憲法に違反する」とされました。
この判決によって1896年の「プレッシー対ファーガソン裁判」における「分離すれど平等」という先例を覆し、人種統合と公民権運動への道を開きました。
ブラウン対教育委員会裁判(Wikipedia)
愛知長久手町立てこもり発砲事件(2007年) 2007年(平成19年)5月17日、愛知県長久手町で元暴力団の男が元妻を人質に自宅に立てこもりました。
男は駆けつけた警察官に発砲。玄関前に倒れたままの警察官を救うため、警官隊が突入した際に特殊急襲部隊員(SAT)1人が撃たれ死亡しました。
その後、犯人は警察の説得に応じて投降し、逮捕されました。
愛知長久手町立てこもり発砲事件(Wikipedia)

5月18日の出来事

5月18日の出来事
アメリカ最高裁が「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする判決(1896年) 1892年(明治25年)、ホーマー・プレッシーは東ルイジアナ鉄道の白人専用と指定された車両に乗車。プレッシーは8分の1がアフリカ系であったため、有色人種用の車両に座らなければなりませんでしたが、拒否して逮捕されました。
ルイジアナ州の人種分離法違反のために罰金を課せられたプレッシーは、すべての国民に法の平等な保護を義務づける合衆国憲法に違反するとしてアメリカ最高裁に上告。
1896年(明治29年)5月18日、アメリカ最高裁は、待遇が同じであれば平等であるという「分離すれども平等」の法原理のもと、公共施設での白人専用等の黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲としました。
白人と非白人を分離することに法的なお墨付きを与えた連邦最高裁判決となり、58年後のブラウン対教育委員会裁判(1954年)で「分離すれども平等」が否定されるまで、アメリカの標準的な法原理とされました。
プレッシー対ファーガソン裁判(Wikipedia)
阿部定事件 – 愛人の男を絞殺し、局部を切り取って逃走(1936年) 1936年(昭和11年)5月18日、東京・荒川区の待合で、阿部定という女が情事の最中に愛人の男を絞殺し、局部を切り取って逃走する事件が発生しました。
猟奇事件として大きく報道され、同月20日に逮捕された際には号外が出されました。また、この事件を題材にした映画や小説なども多く作られました。
阿部定事件(Wikipedia)

5月19日の出来事

5月19日の出来事
蝦夷(えみし)の族長アテルイが坂上田村麻呂に降伏(802年) 古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、ヤマト王権(4~7世紀)に服さなかった集団です。
アテルイは、奈良時代末期から平安時代初期に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷の族長です。
アテルイは、789年に朝廷と蝦夷の間で行われた戦闘で征夷軍を大敗させました。
しかし、802年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が胆沢攻略戦を成功させると、アテルイは、802年5月19日に蝦夷の族長の一人であった盤具公母禮とともに同族500人を率いて降伏しました。
アテルイは盤具公母禮と平安京へ連行され、坂上田村麻呂が反対するも、二人は処刑されました。
アテルイ(Wikipedia)
東京・皇居前で開催された食糧メーデーに25万人が参加(1946年) 1946年(昭和21年)5月19日、皇居前広場で政府の食糧配給遅延に抗議する集会「飯米獲得人民大会(通称:食糧メーデー)が開催され、25万人が集結しました。
代表者らは首相官邸の組閣本部前に座り込み、吉田茂の組閣反対、食糧危機打開のための人民民主政府樹立などを要求し、いったん吉田の組閣を断念させました。
しかし、翌20日、GHQ最高司令官のマッカーサーは「暴力デモは秩序ある統治と占領目的を脅かすもの」との声明を発して社会党と共産党を牽制。運動は沈静化しました。
この声明に支えられるかたちで22日に第1次吉田茂内閣が成立しました。
飯米獲得人民大会(Wikipedia)

5月20日の出来事

5月20日の出来事
リンカーン大統領が西部の未開拓地を無償で払い下げるホームステッド法に署名(1862年) 南北戦争中の1862年5月20日、アメリカのリンカーン大統領が「ホームステッド法」に署名し、発効しました。
この法律は西部の未開拓の公有地(160 エーカー)を無償で払い下げるというものでした。
21歳以上のアメリカ市民(あるいは市民になろうとする者)なら誰でも申請が可能であり、5年以上開拓した土地で農業に従事すればその土地を無償で取得することができました。
これによって西部の農民は北部の連邦政府を支持することとなり、南北戦争(1861~1865)で北軍を有利にしました。
ホームステッド法(Wikipedia)
世界初のうま味調味料『味の素』を発売(1909年) 1907年(明治40年)、化学者の池田菊苗が人間の味覚には「甘味、酸味、塩味、苦味」の4つに加えて「うま味」が存在すると提唱。その後、昆布に由来する「うま味」の主成分が「グルタミン酸」であることを発見しました。
池田菊苗はグルタミン酸を主要成分とした調味料の製造法を発明し、その商品化を鈴木製薬所の鈴木三郎助(味の素の創業者)に委託しました。
1909年(明治42年)5月20日、世界で初めて「味の素」という商品名でうま味調味料(旧称は化学調味料)を発売。
その後、鈴木製薬所は社名を変えながら成長を続け、1946年(昭和21年)に現在の味の素株式会社に改称。5月20日は同社の創業記念日となっています。
うま味調味料(Wikipedia)
東ティモールがインドネシアから独立(2002年) 2002年(平成14年)5月20日、東ティモールがインドネシアの支配から独立しました。
ポルトガルの植民地であった東ティモールは1975年(昭和50年)11月28日にポルトガルから独立しましたが、その後インドネシアに占拠されていました。
東ティモール(Wikipedia)

5月21日の出来事

5月21日の出来事
島原大変肥後迷惑 – 10メールの津波が発生(1792年) 1792年5月21日夜、噴火が続いていた雲仙岳(長崎県の島原半島)で地震とともに眉山の一部が崩壊。大量の土砂が有明海に流れ込んで最大10メールといわれる津波が発生しました。
津波による被害は島原や対岸の肥後・天草(熊本県)にもおよび、死者・行方不明者は約1万5000人に達しました。
島原大変肥後迷惑(Wikipedia)
寺田屋騒動 – 尊攘派志士が薩摩藩兵に殺害される(1862年) 1862年5月21日、薩摩藩士の有馬新七らは、藩主の父である島津久光の入京を機に挙兵討幕を企て、京都伏見の船宿・寺田屋に集結していました。
公武合体論(朝廷と幕府が協力して政局にあたろうとする体制)をとる久光はこれを知ると、志士らの暴発を止めようと家臣を派遣しました。
しかし、有馬らはこれに従わず、薩摩藩士同士の乱闘となり、有馬ら6人が闘死し、2人が重傷を負って捕らわれました。
寺田屋事件(Wikipedia)
リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功(1927年) 1927年(昭和2年)5月21日、前日にニューヨークを出発したアメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグがフランスのパリに到着し、世界初となる大西洋単独無着陸横断飛行に成功しました。
これによりリンドバーグは、ニューヨーク – パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞を受賞。一躍世界の英雄となりました。
チャールズ・リンドバーグ(Wikipedia)
津山事件 – 死者30人の大量殺人事件が発生(1938年) 1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県西加茂村(現在の津山市加茂町)の集落で大量殺人事件が発生しました。
犯行が行われた2時間足らずの間に28人が即死し、5人が重軽傷を負いました(そのうち12時間後までに2人が死亡)。
犯人は21歳の男。結核により徴兵検査で不合格になったこと、異性関係の挫折などから自殺観念が生じたといいます。さらに村人への復讐および殺人衝動が芽生え、周到な準備の後、実行に移りました。犯人は犯行後に自殺しています。
小説『八つ墓村』や『丑三つの村』はこの事件をモチーフにしています。
津山三十人殺し(Wikipedia)

5月22日の出来事

5月22日の出来事
観測史上最大のチリ地震が発生 – 津波が日本を襲う(1960年) 1960年(昭和35年)5月22日15時11分(現地時間)、南米チリ沿岸を震源とするマグニチュード9.5という観測史上最大の超巨大地震が発生。チリ全土が壊滅状態になり、1743人が犠牲になりました。
この地震によって生じた津波は平均時速750kmという高速で太平洋を横断。22時間後(日本時間の5月24日未明)に日本の太平洋沿岸に到達しました。
津波は三陸海岸で6メートルを超え、三陸沿岸を中心に多くの犠牲者を出しました(日本での死者・行方不明者は142人)。
チリ地震津波は、日本到達の7時間前にハワイ諸島に到達しており、その情報は米軍を通じて日本に伝えられましたが、日本で警報が出されたのは津波が到達してからとなりました。
これを教訓として、気象庁では遠地津波に対する津波予報を新設したほか、太平洋広域での地震・津波情報の共有組織が国連の下に組織されました。
チリ地震 (1960年)(Wikipedia)
東京ゴミ戦争 – 江東区が杉並区からのごみ収集車を追い返す(1973年) 1973年(昭和48年)5月22日、東京都区部のゴミの最終処分場を持つ江東区が、反対運動により清掃工場の建設が進まない杉並区を地域エゴと断じて、杉並区からのゴミ収集車を追い返しました。
江東区と杉並区の間で起きたゴミの処理・処分に関する紛争は「東京ゴミ戦争」と呼ばれました。
東京ゴミ戦争(Wikipedia)

5月23日の出来事

5月23日の出来事
海賊船の船長キャプテン・キッドが絞首刑に処される(1701年) キャプテン・キッドの名で知られるウィリアム・キッドは1654年頃にスコットランドに生まれ、船乗りとなってイギリスの植民地アメリカに渡りました。
その後、私掠船(政府から敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可を得た個人の船)の船長として活動するも、成果は思わしくなく、みずから商船を襲って海賊行為を働くに至りました。
そしてウィリアム・キッドは逮捕され、1701年5月23日にロンドンで絞首刑に処されました。
キッドが世界のどこかに財宝を隠したという伝説があり、エドガー・アラン・ポーの小説『黄金虫』をはじめ多くの物語の題材になっています。
ウィリアム・キッド(Wikipedia)
兵庫県北部で北但馬地震が発生し、428人が死亡(1925年) 1925年(大正14年)5月23日11時10分頃、兵庫県北部(但馬地方)を震源とするマグニチュード6.8の北但馬地震が発生しました。
兵庫県豊岡市で震度6を観測。兵庫県北部を中心に甚大な被害をもたらし、428人が死亡しました。
また、昼食時に重なったことから各地で火災が発生。豊岡や城崎の市街地では広範囲が焼失しました。
北但馬地震(Wikipedia)
長岡京ワラビ採り殺人事件 – 主婦2人が惨殺されるも未解決事件へ(1972年) 1979年(昭和54年)5月23日、京都府長岡京市の山中で主婦2人が殺害されました。
2人はスーパーでのパート仕事を終えて、近くの山にワラビ採りに行ったまま消息不明となり、2日後に山頂付近で遺体となって発見されました。
お金を奪われた形跡はなく、被害者の衣服のポケットから「オワレている たすけて下さい この男の人わるい人」と鉛筆で走り書きをしたレシートが発見されました。
有力な情報も得られないまま捜査は難航し、1994年5月24日に公訴時効が成立しました。
長岡京ワラビ採り殺人事件(Wikipedia)

5月24日の出来事

5月24日の出来事
豊臣秀吉の朝鮮出兵第一陣が釜山に上陸し、文禄の役が始まる(1592年) 1592年5月24日、豊臣秀吉による朝鮮出兵第一陣の小西行長らが釜山に上陸し、文禄の役が始まりました。
日本の天下統一を果たした秀吉は、明(中国)の征服を目指し、朝鮮(李氏朝鮮)に道案内を求めました。しかし、朝鮮が断ると2度にわたって朝鮮に侵攻しました(文禄・慶長の役)。
日本軍は朝鮮の首都・漢城(ソウル)を陥落させましたが、明・朝鮮の軍におされて苦戦し、1598年に秀吉が病死すると徳川家康ら五大老は朝鮮からの撤退を決定し、兵を引き上げました。
文禄・慶長の役(Wikipedia)
十勝岳噴火 – 大規模な火山泥流が発生し死者144人(1926年) 1926年(大正15年)5月24日16時18分頃、北海道の中央部の十勝岳(標高2077m)で大規模な水蒸気爆発が発生しました。
中央火口丘の西半分が破壊され、高温の岩屑なだれ(山崩れ)が山頂付近の残雪を溶かし、大規模な火山泥流が発生。
この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、わずか25分で火口から25 km離れた美瑛村と上富良野の市街地に到達。一帯が埋没し、144人が犠牲になりました。
1926年の十勝岳噴火は、寒冷地で積雪期に起こる融雪型火山泥流の典型的な事例であり、国内外の火山学の専門書などで多数言及されています。
1926年の十勝岳噴火(Wikipedia)

5月25日の出来事

5月25日の出来事
『スター・ウォーズ』第1作がアメリカで公開(1977年) 1977年(昭和52年)5月25日、SF映画『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督)の第1作がアメリカで公開されました。
「遠い昔、はるか彼方の銀河系で…」を舞台に、銀河帝国軍と反乱同盟軍の戦いを描いた壮大な物語は世界で大ヒット。日本でも翌年の7月1日に公開されました。
スター・ウォーズは、『ジョーズ』(1975年)を抜いて世界歴代興行収入記録を更新し、『E.T.』(1982年)に抜かれるまで記録を保持しました。
スター・ウォーズシリーズ(Wikipedia)
板橋資産家夫婦放火殺人事件(2009年) 2009年(平成21年)5月25日、東京・板橋区の敷地1000坪の豪邸から出火し全焼。焼け跡から家主の老夫婦の殺害された遺体が発見されました。
殺害された男性は地元では有名な資産家として知られていました。
現在も犯人は逮捕されておらず未解決事件となっています。
板橋資産家夫婦放火殺人事件(Wikipedia)

5月26日の出来事

5月26日の出来事
謎の孤児カスパー・ハウザーが発見される(1828年) 1828年5月26日、バイエルン王国(ドイツ南部)のニュルンベルクで、16歳ほどの少年が発見されました。
少年はまともに話すことができず、紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」という名前を書きました。
カスパーは孤独な状態で長く地下牢に幽閉され、パンと水だけを与えられて育ったと推測されました。
その後、教育を施されたカスパーは、自らの過去を少しずつ語り出すようになりましたが、1833年12月に何者かによって暗殺され、彼の出自は不明なままとなりました。
カスパーの出自については様々な憶測が飛び交い、バーデン大公の嫡子が相続をめぐって幽閉、抹殺されたとする説もあります。
また、その数奇な生涯は、文学、楽曲、映画など様々なジャンルで取り上げられています。
カスパー・ハウザー(Wikipedia)
日本海中部地震が発生し、津波などで死者104人(1983年) 1983年(昭和58年)5月26日12時頃、秋田沖を震源とするマグニチュード7.7の日本海中部地震が発生しました。
秋田市や青森県むつ市・深浦町で震度5を観測。秋田・青森両県には高さ5~6メートルの津波が来襲し、遠足中の小学生が巻き込まれるなど104人が犠牲になりました(津波による死者は100人)。
日本海中部地震(Wikipedia)

5月27日の出来事

5月27日の出来事
対馬沖で日本海海戦(日露戦争)の火ぶたが切られる(1905年) 1905年(明治38年)5月27日、対馬沖において日露戦争(1904~1905)最大の海戦である日本海海戦の火ぶたが切られました。
陸海ともに敗退を重ねていたロシアは、最新鋭戦艦4隻を擁するバルチック艦隊を喜望峰ルートでウラジオストクに向かわせて挽回をはかるも、東郷平八郎の率いる連合艦隊はこれを対馬沖で捕え、5月27日から翌日にかけての戦闘の結果、バルチック艦隊に壊滅的打撃を与えました。
日本はこれを機にアメリカに調停を依頼。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、1905年9月に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が調印されました。
この条約によって日本は満州南部の鉄道・領地の租借権、朝鮮に対する排他的指導権などを獲得しましたが、戦争賠償金を獲得することができなかったため、日本国内では日比谷焼打事件などの暴動が起こりました。
日本海海戦(Wikipedia)
藤沢市母娘ら5人殺害事件が発生(1982年) 1982年(昭和57年)5月27日夜、神奈川県藤沢市の住宅で母娘3人が刺殺される事件が発生しました。
犯人の男は、交際を拒絶された女子高生とその母と妹の3人を刃物で刺殺しました。
また、この事件の前には金銭トラブルとなっていた元少年院仲間の男性を刺殺、事件後には母娘殺人の共犯者を口封じのために刺殺しました。
約8か月間に計5人を殺害した犯人は死刑判決が確定し、2007年に刑が執行されました。
藤沢市母娘ら5人殺害事件

5月28日の出来事

5月28日の出来事
インディアン移住法が成立 – 涙の道へ(1830年) 1830年5月28日、アメリカ第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン移住法」に署名し、成立させました。
この法律は、先住民であるインディアンをミシシッピ川以西の居留地に移住させることを定めたものであり、オクラホマ州を中心としたインディアン居留地への移住が強制的、合法的にすすめられました。
この法律の背景には肥沃なミシシッピ川以東の地に入植を進めていた白人プランターの意向があったとされています。
この政策によって強制移住させられたインディアンは1840年代までに10万人に及び、移住の途中で病気や事故により多くの犠牲者が出たことから「涙の道」といわれました。
インディアン移住法(Wikipedia)
ロシアと清がアイグン条約を締結 – アムール川左岸がロシア領へ(1858年) 1858年5月28日、ロシアと清(中国)との間で国境条約(アイグン条約)が締結されました。
東シベリアに進出したロシアはこの条約によって、アロー戦争(清とイギリス・フランス連合軍との戦争)で窮地に立つ清に、アムール川(黒竜江)左岸をロシア領としてみとめさせました。
これは、清が19世紀から20世紀初頭にかけて列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。
後に清はこの条約を否認しましたが、1860年の北京条約で内容を追認し、さらに領土を失うことになりました。
現在のロシアと中国の極東部での国境線は、このアイグン条約と北京条約で確定されたものが基本となっています。
アイグン条約(Wikipedia)
川崎市登戸通り魔事件が発生(2019年) 2019年(令和元年)5月28日7時45分頃、神奈川県川崎市の登戸駅付近の路上で、スクールバスを待っていた小学生や保護者らが近づいてきた男に相次いで刺されました。
被害者のうち小学6年生の女児と保護者男性の2人が死亡し、18人が負傷しました。
犯人は犯行の直後に自ら首を刺し、その後死亡しました。襲撃の動機は不明とされています。
川崎市登戸通り魔事件(Wikipedia)

5月29日の出来事

5月29日の出来事
コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国滅亡(1453年) 1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落。これにより東ローマ帝国(395~1453)は滅亡しました。
メフメト2世は後にコンスタンティノープルをイスタンブールと改称してオスマン帝国(1299~1922)の新たな首都としました。
シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われたことから、ヨーロッパでは新ルート開拓として大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)が始まりました。
また、滅亡の前後に多くのギリシア人古典学者が古代ギリシア・ローマ時代の文献を携えてイタリア半島に移住したことから、イタリアにギリシア古典文化がもたらされ、イタリア・ルネサンスに多大な影響を与えました。
コンスタンティノープルの陥落(Wikipedia)
イングランド王政復古 – チャールズ2世がフランスから帰国(1660年) 1660年5月29日、フランスに亡命していたチャールズ2世がロンドンに入城してイングランドの王政復古を実現させました。
清教徒革命(ピューリタン革命)で1649年にイングランド国王チャールズ1世が処刑されると、イングランド共和国が樹立され、革命の指導者であったクロムウェルが政治のリーダーになりました。
1658年にクロムウェルが亡くなると、跡を継いだクロムウェルの息子が力不足で間もなく辞職し、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政に戻りました。
イングランド王政復古(Wikipedia)
エドモンド・ヒラリーらがエベレストに世界初登頂(1953年) 1953年(昭和28年)5月29日、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイが、世界で初めてエベレストの登頂に成功しました。
この快挙により、エドモンド・ヒラリーはエリザベス2世から大英帝国勲章ナイトの勲位を授与されました。
日本人による初登頂は、17年後の1970年(昭和45年)5月11日に松浦輝夫と植村直己が成功しています。
5月はヒマラヤの気候が安定するシーズン(プレモンスーン)にあたるため、この時期にエベレスト登頂も集中しています。
エドモンド・ヒラリー(Wikipedia)

5月30日の出来事

5月30日の出来事
テルアビブ空港乱射事件 – 日本赤軍が24人を殺害(1972年) 1972年(昭和47年)5月30日、アラブ赤軍(後の日本赤軍)3人がイスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港に到着後、約300人の旅行客らに向けて自動小銃を乱射、24人を死亡させ、70人以上に重軽傷を負わせました。
実行犯は赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)、京都大学の学生の安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生の岡本公三(当時25歳)の3人。奥平と安田は現場で死亡。岡本は逮捕されました。
岡本はイスラエルで終身刑が確定して服役。1985年にパレスチナ側との捕虜交換で釈放され、日本赤軍が本拠地としていたレバノンへ移り、2000年にレバノンへの政治亡命が認められました。
日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払いました。
テルアビブ空港乱射事件(Wikipedia)
小笠原諸島西方沖地震が発生し、全都道府県で揺れを観測(2015年) 2015年(平成27年)5月30日20時23分頃、小笠原諸島西方沖を震源とするマグニチュード8.1の地震が発生しました。
小笠原諸島と神奈川県二宮町で震度5強を観測。この地震による大きな人的・物的被害はありませんでしたが、首都圏を中心にエレベータの停止や鉄道のダイヤの乱れが相次ぎました。
また、この地震は震源の深さが観測史上最深レベルの深さ(682km)であったことが特徴で、揺れの範囲が広く、観測史上初めて北海道から沖縄にかけての全都道府県で震度1以上の揺れを観測しました。
小笠原諸島西方沖地震 (2015年)(Wikipedia)

5月31日の出来事

5月31日の出来事
日本海軍の特殊潜航艇が豪シドニー港を攻撃(1942年) 1942年(昭和17年)5月31日、日本海軍の特殊潜航艇3隻がオーストラリアのシドニー港に停泊中の連合軍艦船を攻撃しました。
最初に発進した特殊潜航艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり自爆。
次の1隻はシドニー湾内に侵入し、アメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を魚雷により攻撃。しかし魚雷は目標をそれてオーストラリア海軍の宿泊艦を沈没させ、乗船者21人が死亡。
最後の1隻は故障で魚雷を発射することができず、「シカゴ」へ体当たりするも魚雷は爆発せず、乗組員は艦内で自決。
魚雷攻撃を行った特殊潜航艇も母艦に戻らず、3隻の搭乗員6人(各艦2人ずつ)は全員戦死と判断されました。
シドニー湾内に沈んだ特殊潜航艇2隻はオーストラリア海軍により引き上げられ、死亡した4人の乗組員を海軍葬にて弔うと発表。オーストラリア国民からは反対意見が出るも、シドニー要港司令官ミュアヘッド・グールド海軍少将は次のように訴えました。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
「非難が集中していることは承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである」
特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(Wikipedia)
南米ペルーでアンカシュ地震が発生し、死者7万人(1970年) 1970年(昭和45年)5月31日15時23分頃(現地時間)、南米ペルー北部のアンカシュ県でマグニチュード7.7のアンカシュ地震が発生しました。
ペルー最高峰のワスカラン山(標高6768m)が地震の揺れにともない崩壊。山頂付近が高さ1000mにわたり大規模に崩壊し、氷雪を巻き込み時速300kmの岩屑なだれとなって山麓のユンガイの集落を埋没させ、死者はユンガイだけで約1万5000人にのぼりました。
この地震による犠牲者は約7万人におよび、50万人以上が家屋を失いました。
アンカシュ地震(Wikipedia)

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