5月に世界で発生した興味深い出来事をご紹介します。
各月の出来事
1月 2月 3月 4月 5月
今日は何の日 366日カレンダー
目次
5月1日 イングランドとスコットランドが合同し、グレートブリテン王国が成立(1707年)
1707年5月1日、イングランド王国とスコットランド王国が合同し、「グレートブリテン王国」が成立。グレートブリテン島全体を支配した歴史上最初の国家となり、現代まで続く連合王国(イギリス)の基盤となりました。
その後、1801年1月にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立。
20世紀に入るとアイルランド独立の動きが激しくなり、1922年12月にアイルランド島の南部26州がアイルランド自由国として分離。連合王国は1927年4月に「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と改称し、これが現在の国号(通称はイギリス)となっています。
5月2日 ベルギー国王の私有地コンゴ自由国が成立(1885年)
1885年(明治18年)5月2日、ベルギー国王レオポルド2世がコンゴ自由国を成立させる。
実態はレオポルド2世の私有地であり、耕作地もすべてが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制されました。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われました。
国王の暴政に国際社会の非難の声が高まり、1908年にレオポルド2世はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年にコンゴ自由国はベルギー政府の植民地であるベルギー領コンゴになりました。
1960年にベルギーから独立してコンゴ共和国が成立。1964年にコンゴ民主共和国に改名。1971年から1997年までザイール共和国に国名変更がなされ、1997年に再びコンゴ民主共和国に改名されました。
なお、コンゴ民主共和国(首都はキンシャサ)の北西に名前が似ているコンゴ共和国(首都はブラザヴィル)があります。
5月3日 江戸開城 – 江戸城が明け渡される(1868年)
1868年(慶応4)5月3日、江戸幕府の本拠・江戸城が新政府軍へ無血裏に明け渡されました。
1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗北。徳川慶喜は江戸へ敗走。慶喜追討のため、新政府軍は静岡まで進撃。
幕臣・山岡鉄舟が西郷隆盛と接触し、慶喜の恭順を表明。1868年4月5日、6日の両日にわたり、江戸・三田の薩摩藩邸において西郷隆盛と幕臣・勝海舟の会談がもたれ、慶喜の助命と江戸開城を交換条件として協定が成立。新政府軍の総攻撃は中止となる。1868年5月3日に正式に江戸城の明け渡しが行われました。
5月4日 スペルガの悲劇 – 墜落事故によりACトリノの選手18人を含む31人が死亡(1949年)
1949年(昭和24年)5月4日、イタリア・トリノ郊外の丘陵地「スペルガの丘」で悪天候による視界不良によって旅客機が墜落。乗員・乗客31名全員が犠牲となりました。その中にはイタリアのプロサッカークラブ、ACトリノの選手18名と監督・スタッフ5名が含まれていました。
リーグ5連覇も目の前という状況でトップチームを丸ごと失ったACトリノは、リーグ戦の残りの4試合をユースチームで戦うことになるも、ACトリノ に敬意を表した相手クラブもユースチームで対抗したためACトリノが優勝を果たしました。しかし、次の優勝までは27年の月日を要しました。
5月5日 ニューヨークのカーネギー・ホールが開館(1891年)
1891年(明治24年)5月5日、アメリカ、ニューヨーク市マンハッタンのミッドタウンに建設されたカーネギー・ホールが公式に開館しました。
カーネギー・ホールは、ウィリアム・タットヒルが設計を手がけ、鉄鋼王と称されるアメリカの実業家アンドリュー・カーネギーにより建てられたコンサートホールです。
カーネギー・ホールは、クラシック、ポピュラー、ジャズなど、ジャンルを超えた「音楽の殿堂」となっており、かつてはニューヨーク・フィルの本拠地でもありました(1962年からリンカーン・センターに本拠地を移す)。
5月6日 オランダがインディアンからマンハッタン島を購入(1626年)
1626年5月6日、オランダがインディアンからマンハッタン島を購入し、ニューアムステルダムと命名。この際、マンハッタン島を60ギルダー相当(現在の価値で1000ドル程度)の装飾品と交換したとされています。
1664年にイギリス軍がニューアムステルダムを占領。イングランド王チャールズ2世は弟のヨーク公(後のジェームズ2世)にこの地を与えたことから、ニューヨークと改称されました。
現在、ニューヨーク市はアメリカ最大の都市であり、マンハッタン、クイーンズ、ブロンクス、ブルックリン、スタッテンアイランドと5つの行政区で構成されています。市域人口は800万人を超え、ニューヨーク市を中心に形成する都市圏の人口は約2000万人にのぼります。マンハッタンは世界の金融、文化の中心地として発展を続け、世界各国から多くの人々が集まっています。
5月7日 日本初のプロボクシング興行を靖国神社相撲場で開催(1922年)
1922年(大正11年)5月7日、日本初のプロボクシング興行「日米拳闘大試合」が渡辺勇次郎のプロモートにより靖国神社の屋外相撲場で開催される。
渡辺勇次郎は1889年(明治20年)に栃木県矢板市に生まれる。1906年、中学を中退して単身渡米。アメリカでボクシングを学び、1908年にカリフォルニア州でデビュー。1910年にカリフォルニア州ライト級王者に勝利し、タイトルを手にする。
1921年、31歳のときに帰国し、東京目黒に日本初の本格的ボクシングジム「日本拳闘倶楽部」を創立。日本ボクシングの幕開けとなる。渡辺勇次郎は「日本ボクシングの父」と称されます。
5月8日 富山県神通川のイタイイタイ病を公害病に認定(1968年)
イタイイタイ病は、富山県の神通川流域で起きた日本の四大公害病(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)の一つです。患者が「イタイ、イタイ」と苦しんだことからこの名が付けられました。
この病気は、神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムが川や農地を汚染し、水や米などを通じて体内に入ることで引き起こされました。
イタイイタイ病が新聞で紹介されると、研究者らがその原因についての調査をはじめ、1968年5月8日、国はイタイイタイ病が公害病であり、その原因は神岡鉱山から出たカドミウムであると認めました。
5月9日 北海道近海でメイストームが発生し犠牲者361人(1954年)
メイストームとは、4月後半から5月にかけて発生する嵐のような気象現象のことをいいます。「メイストーム(May storm)」は和製英語で1954年(昭和29年)5月9日夜から10日にかけて、北海道近海で集団遭難をもたらした低気圧から名付けられました。別名は「春の嵐」です。
1954年5月8日に黄海で発生した低気圧は発達しながら日本海を北東進し、9日夜から10日にかけて北海道を通過しながら猛烈に発達。9日9時の988ヘクトパスカルから翌10日9時の952ヘクトパスカルまで急速に発達しました。
これにより、北海道南東海域では9日午後9時には平均風速が20~25m、波高5~7mと大荒れの天気になりました。最大瞬間風速(秒速)は青森で30.1m、網走で31.7m を観測。出漁中のサケ・マス漁船群は避難するタイミングを逃し、沈没などにより361人が犠牲となりました。
5月10日 アメリカで世界初の母の日を開催(1908年)
社会活動家のアン・ジャービス(1832~1905)は、アメリカの南北戦争中、「母の仕事の日」と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するための活動を行いました。
アン・ジャービスの死後、娘のアンナ・ジャービス(1864~1948)は亡き母をしのんで、1907年(明治40年)5月12日に教会で記念会を開催し、母の好きな白いカーネーションを捧げました。これが「母の日」の起源とされます。
アンナの母への想いに人々は感動し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝いました。アンナは参加者全員に白いカーネーションを贈りました。
アンナ・ジャービスは「母の日」を国中で祝うことを提案。1914年(大正3年)に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められました。
日本でも1949年(昭和24年)ごろからアメリカにならって5月の第2日曜日に母の日が行われるようになりました。
5月11日 来日中のロシア皇太子が警衛の巡査に切りつけられ負傷 – 大津事件(1891)
シベリア鉄道起工式に臨む途中に来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(後の皇帝ニコライ2世)が、1891年(明治24年)5月11日に滋賀県大津で警衛の巡査に切りつけられ負傷する。犯行の動機は、皇太子の来日が日本侵略の準備であるという噂を信じたためともいわれます。
日本政府は司法当局に死刑を適用するよう働きかけるも、裁判で犯人は無期懲役となる。行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めたことから近代日本法学史上重要な事件とされています。
5月12日 客船オリンピック号がドイツ潜水艦U-103を体当たりで沈める(1918年)
1911年に就航したイギリス船籍の客船オリンピック号は、1912年4月に氷山に衝突して沈没したタイタニック号の姉妹船です。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オリンピック号はイギリス軍に徴用され、アメリカ軍部隊の輸送任務につく。
1918年5月12日、ドイツ潜水艦U-103から雷撃を受けると、船長は雷撃を回避した後に退避することなく、オリンピック号の船首をU-103へ向け、巨大な船体による体当たり攻撃で反撃。U-103は船体を2つに破断されて沈没。第一次世界大戦において商船が軍艦を撃沈した唯一の事例と見られています。この行動には批判もありましたが、船長はアメリカ政府から殊勲十字章を授与されました。
5月13日 ファティマの3人の子どもたちの前に聖母マリアが現れる(1917年)
1917年(大正6年)5月13日、ポルトガルの小さな町ファティマの3人の羊飼いの子どもたちの前に聖母マリアが現れました。ローマ教皇庁が奇跡として認めた「ファティマの聖母」です。
聖母マリアは毎月13日に同じ場所へ会いに来るようにいいました。子どもたちは聖母に会い続けて様々なメッセージを託されました。
聖母からのメッセージは「死後の地獄の実在」「大戦争の終焉と勃発(第一次世界大戦はまもなく終わること)」「ファティマ第三の秘密(1960年までは非公開にすること)」などでした。
聖母マリアの最後の出現となった1917年10月13日、聖母マリアを一目見ようと集まった7万人以上の群衆の前で太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返したといいます(太陽の奇跡)。
これによりファティマはローマ・カトリックの巡礼者を中心に国際的な巡礼地として知られています。
5月14日 イスラエルが建国宣言を行い、第一次中東戦争が勃発(1948年)
パレスチナは、第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年までイギリス帝国の委任統治領となる。
第二次世界大戦後、パレスチナのユダヤ人とアラブ人との対立は収拾がつかない状態になる。イギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題を国連に委ねる。国連はユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案を採択。イギリスは1948年5月15日までにパレスチナから撤退することを決定する。
1948年5月14日、ユダヤ人はイスラエル独立宣言(建国宣言)を行う。これを認めない近隣アラブ諸国は宣戦を布告し、第一次中東戦争が勃発。イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めました。
5月15日 青年将校らが内閣総理大臣犬養毅を殺害 – 五・一五事件(1932年)
1932年(昭和7年)5月15日、武装した海軍の青年将校らが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害。さらに日本銀行、警視庁、政友会本部なども襲撃した。
事件の背景として、1929年(昭和4年)の世界恐慌により失業者が増加し、農村も貧困により疲弊。一方、財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がったことで、問題に対処できない政党政治が敵視されるようになる。政治の革新が強く求められるなか、反乱事件を起こした海軍青年将校らは、軍国主義的国家改造を行おうとしていた。
事件後、軍部はこれを政治的進出に利用。政党政治(衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になる)は崩壊し、第二次世界大戦後まで復活することはなかった。
裁判では、政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなる。これが二・二六事件(1936年)の陸軍将校の反乱を後押ししたといわれています。
5月16日 田部井淳子が女性初のエベレスト登頂に成功(1975年)
1975年(昭和50年)5月16日、35歳の登山家の田部井淳子が女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功しました。
田部井氏は昭和女子大学を卒業後、社会人の山岳会で本格的に登山を始めました。
1969年に女性だけの海外遠征の登山隊を作り、女性には登れないという世間の偏見に向き合いながらエベレスト登頂に挑戦しました。
エベレスト登頂後も女性登山家の草分けとして登山活動を続け、1992年(平成4年)に世界七大陸の最高峰をすべて登頂した世界最初の女性となりました。
晩年には病と闘いながら、東日本大震災で被災した高校生らとともに富士山に登りました。
5月17日 最初の屯田兵が北海道に入植(1875年)
1875年(明治8年)5月17日、最初の屯田兵が北海道に入植しました。
明治維新後、旧幕府側の武士の多くは貧窮しました。そのような士族の救済と北海道の開拓、警備を目的に、明治政府によって北海道各地に移住・配備された人たちのことを屯田兵といいます。
屯田兵は平時は農耕に従事し、戦時に兵役に就くため、西南戦争(1877年)、日清戦争(1894年~1895年)、日露戦争(1904年~1905年)に参加しました。
明治10年の西南戦争では、屯田兵の下士兵卒に東北諸藩の士族出身者が多かったことから、戊辰戦争で敵だった鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立ったといいます。
後期屯田の1890年(明治23年)からは族籍に関係なく、平民からも屯田兵を募集するようになり後期は平民がほとんどでした。
1904年(明治37年)、北海道の開拓が相当に進展し、北海道の人口も徴兵制で兵士を集めることが可能な水準に達しつつあったため、屯田兵制度は廃止されました。
5月18日 アメリカ連邦最高裁が「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする判決(1896年)
1892年(明治25年)、ホーマー・プレッシーは東ルイジアナ鉄道の白人専用と指定された車両に乗車。プレッシーは8分の1がアフリカ系であったため、有色人種用の車両に座らなければならなかったが、拒否して逮捕される。プレッシーはルイジアナ州の人種分離法違反のために罰金を課せられる。1896年、プレッシーはアメリカ合衆国連邦最高裁に上告。
1896年(明治29年)5月18日、アメリカ連邦最高裁が待遇が同じであれば平等であるという「分離すれども平等」の主義のもと、公共施設での白人専用等の黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲とする。
白人と非白人を分離することに法的なお墨付きを与えた連邦最高裁判決となり、58年後のブラウン対教育委員会裁判(1954年 / 昭和29年)で「分離すれども平等」が否定されるまで、アメリカの標準的な主義として残ることになりました。
5月19日 蝦夷(えみし)の族長アテルイが坂上田村麻呂に降伏(802年)
アテルイは、奈良時代末期から平安時代初期に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長。蝦夷は、本州東部に居住し、大和朝廷に服さなかった集団。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。
アテルイは、789年に朝廷と蝦夷(えみし)の間で行われた戦闘(巣伏の戦い)で征東大将軍・紀古佐美の率いる征夷軍を大敗させる。
しかし、802年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が胆沢攻略戦を成功させると、アテルイは、802年5月19日に蝦夷の族長の一人であった盤具公母禮とともに同族500人を率いて降伏。
アテルイは盤具公母禮と平安京へ連行され、坂上田村麻呂が反対するも、二人は処刑されました。
5月20日 世界初のうま味調味料「味の素」を発売(1909年)
1907年(明治40年)、化学者の池田菊苗(1864~1936)が人間の味覚には「甘味、酸味、塩味、苦味」の4つに加えて「うま味」が存在すると提唱。昆布に由来する「うま味」の主成分が「グルタミン酸」であることを発見する。
池田菊苗はグルタミン酸を主要成分とした調味料の製造法を発明し、その商品化を鈴木製薬所の鈴木三郎助(味の素の創業者)に委託。
1909年(明治42年)5月20日、世界で初めて「味の素」という商品名でうま味調味料(旧称は化学調味料)を発売。
その後、鈴木製薬所は社名を変えながら成長を続け、1946年(昭和21年)に現在の味の素株式会社に改称。5月20日は同社の創業記念日となっています。
5月21日 津山事件 – 死者30人の大量殺人事件が発生(1938年)
1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県苫田郡西加茂村(現在の津山市加茂町)の集落で大量殺人事件が発生。犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。
犯人は21歳の男性。結核により徴兵検査で不合格になったこと、異性関係の挫折などから自殺観念が生じる。さらに村人への復讐および殺人衝動が芽生え、周到な準備の後、実行に移る。犯行後に犯人は自殺した。
横溝正史の小説『八つ墓村』や西村望の小説『丑三つの村』はこの事件をモチーフにしている。
5月22日 観測史上最大のチリ地震が発生(1960年)
1960年(昭和35年)5月22日15時11分(現地時間)、チリ南部でマグニチュード9.5という観測史上最大の超巨大地震が発生。首都サンティアゴを始め、チリ全土が壊滅状態になり、死者1,743名、負傷者は667名に及びました。
この地震によって生じた津波は平均時速750kmという高速で太平洋を横断。約15時間後にはハワイ諸島を襲い、22時間半後に日本列島の沿岸に到達。
津波は三陸海岸で6メートルを超え、三陸沿岸を中心に多くの犠牲者を出しました(日本での死者・行方不明者は142名)。
チリ地震津波は、日本到達の7時間前にハワイ諸島に到達しており、その情報は米軍を通じて日本に伝えられるも、日本で警報が出されたのは津波が到達してからとなりました。これを教訓として、気象庁では遠地津波に対する津波予報を新設したほか、遠地津波に対して国際的な連携を強めています。
5月23日 海賊船の船長キャプテン・キッドが絞首刑に処される(1701年)
キャプテン・キッドの名で知られるウィリアム・キッドは1654年頃にスコットランドに生まれ、船乗りとなってイギリスの植民地アメリカに渡りました。
その後、私掠船(政府から敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可を得た個人の船)の船長として活動するも、成果は思わしくなく、みずから商船を襲って海賊行為を働くに至りました。
そしてウィリアム・キッドは逮捕され、1701年5月23日にロンドンで絞首刑に処されたのです。
キッドが世界のどこかに財宝を隠したという伝説があり、エドガー・アラン・ポーの小説『黄金虫』をはじめ多くの物語の題材になっています。
5月24日 死者・行方不明者144名の十勝岳噴火が発生(1926年)
1926年(大正15年)5月24日、北海道の中央部の十勝岳(標高2,077 m)で大希望な水蒸気爆発が発生。
中央火口丘の西半分が破壊され、高温の岩屑なだれ(山崩れ)が山頂付近の残雪を溶かし、大規模な火山泥流が発生。
この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し(平均速度約60km)、わずか25分で火口から25 km離れた美瑛村と上富良野の市街地に到達。死者・行方不明者は144名となった。
1926年の十勝岳噴火は、日本の火山災害史上において大規模な泥流を伴った事例として広く知られ、なおかつ寒冷地で積雪期に起こる火山災害の典型例とされています。
5月25日 『スター・ウォーズ』第1作がアメリカで公開(1977年)
1977年(昭和52年)5月25日、SF映画『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督)の第1作がアメリカで公開される。
「遠い昔、はるか彼方の銀河系で…」を舞台に、銀河帝国軍と反乱同盟軍の戦いを描いた壮大な物語は世界で大ヒット。日本でも翌年の7月1日に公開されました。
スター・ウォーズは、『ジョーズ』(1975年)を抜いて世界歴代興行収入記録を更新し、『E.T.』(1982年)に抜かれるまで記録を保持しました。
ジョージ・ルーカスは黒澤明監督(1910~1998)に影響を受けており、彼の時代劇映画『隠し砦の三悪人』(1958年)からも映画のヒントを得たと語っています。
その後スター・ウォーズはシリーズ化され、1977~1983年に3作品(エピソード4~6)、1999~2005年に3作品(エピソード1~3)を上映。2012年には米ウォルト・ディズニーが「ルーカスフィルム」を買収し、2015年~2019年にかけて新3部作(エピソード7~9)を上映しました。
5月26日 謎の孤児カスパー・ハウザーが発見される(1828年)
1828年5月26日、バイエルン王国(ドイツ南部)のニュルンベルクで、16歳ほどの少年が発見される。
少年はまともに話すことができず、紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
カスパーは孤独な状態で長く地下牢に幽閉され、パンと水だけを与えられて育ったと推測された。
その後、カスパーは教育を施され、自らの過去を少しずつ語り出すようになるも、1833年12月に何者かによって暗殺され、彼の出自は不明なままとなった。
カスパーの出自については様々な憶測が飛び交い、バーデン大公の嫡子が相続をめぐって幽閉、抹殺されたとする説などがある。
また、その数奇な生涯は、文学、楽曲、映画など様々なジャンルで取り上げられています。
5月27日 対馬沖で日本海海戦(日露戦争)の火ぶたが切られる(1905年)
1905年(明治38年)5月27日、対馬沖において日露戦争(1904年2月~1905年9月)最大の海戦である日本海海戦の火ぶたが切られる。
陸海ともに敗退を重ねていたロシアは、最新鋭戦艦4隻を擁するバルチック艦隊を喜望峰ルートでウラジオストクに向かわせて挽回を図るも、東郷平八郎(1848~1934)の率いる連合艦隊はこれを対馬沖で捕え、5月27日から翌日にかけての戦闘の結果、バルチック艦隊に壊滅的打撃を与えました。
日本はこれを機にアメリカに調停を依頼。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)の斡旋によって、1905年9月に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が調印されました。
この条約によって日本は満州南部の鉄道・領地の租借権、朝鮮に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争賠償金を獲得することができなかったため、日本国内では日比谷焼打事件などの暴動が起こりました。
5月28日 インディアン移住法が成立 – 涙の道へ(1830年)
1830年5月28日、アメリカ第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの政権下でインディアン移住法が制定される。
この法律は、先住民であるインディアンをミシシッピ川以西の居留地に移住させることを定めたものであり、オクラホマ州を中心としたインディアン居留地への移住が強制的、合法的にすすめられました。
この法律の背景には肥沃なミシシッピ川以東の地に入植を進めていた白人プランターの意向があったとされています。
この政策によって強制移住させられたインディアンは1840年代までに10万人に及び、移住の途中で病気や事故により多くの犠牲者が出たことから「涙の道」といわれました。
チェロキー族の移住では、15,000人のうちおよそ4,000人が亡くなりました。
5月29日 コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国滅亡(1453年)
1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世(1432~1481)によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルが陥落。これにより東ローマ帝国は滅亡しました。
メフメト2世は後にコンスタンティノープルをイスタンブールと改称してオスマン帝国の新たな首都としました。
東ローマ帝国の滅亡が影響した出来事として、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)とイタリア・ルネサンス(14世紀~16世紀)などがあります。
シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われたことから、ヨーロッパでは新ルート開拓として大航海時代が始まりました。
また、滅亡の前後に多くのギリシア人古典学者が古代ギリシア・ローマ時代の文献を携えてイタリア半島に移住したことから、イタリアにギリシア古典文化がもたらされ、イタリア・ルネサンスに多大な影響を与えました。
5月30日 テルアビブ空港乱射事件 – 日本赤軍が24人を殺害(1972年)
1972年(昭和47年)5月30日、アラブ赤軍(後の日本赤軍)3名がイスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港に到着後、自動小銃と手投げ弾で約300人の到着客に乱射、24人を死亡させ、73人に重軽傷を負わせた。
実行犯は赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)、京都大学の学生の安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生の岡本公三(当時25歳)の3名。奥平と安田は現場で死亡。岡本は逮捕される。
岡本はイスラエルで終身刑が確定して服役。1985年(昭和60年)に捕虜交換で釈放され、日本赤軍が本拠地としていたレバノンに在住している。
日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った。
5月31日 太平洋戦争 – 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(1942年)
1942年(昭和17年)5月31日、日本海軍の特殊潜航艇3隻がオーストラリアのシドニー港に停泊中の連合軍艦船を攻撃。
最初に発進した特殊潜航艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり自爆。
次の1隻はシドニー湾内に侵入し、アメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を魚雷により攻撃。しかし魚雷は目標をそれてオーストラリア海軍の宿泊艦を沈没させ、その乗船者21名が死亡。
最後の1隻は故障で魚雷を発射することができず、「シカゴ」へ体当たりするも魚雷は爆発せず、乗組員は艦内で自決。
魚雷攻撃を行った特殊潜航艇も母艦に戻らず、3隻の搭乗員6名(各艦2名ずつ)は全員戦死と判断される。
シドニー湾内に沈んだ特殊潜航艇2隻はオーストラリア海軍により引き上げられ、死亡した4名の乗組員を海軍葬にて弔うと発表。オーストラリア国民からは反対意見が出るも、シドニー要港司令官ミュアヘッド・グールド海軍少将は次のように訴えました。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」