4月に世界で発生した興味深い出来事をご紹介します。
各月の出来事
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今日は何の日 366日カレンダー
目次
4月1日 国鉄分割民営化 – JRグループ7社が発足(1987年)
1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道(国鉄)は1872年(明治5年)に新橋 – 横浜を繋いだ日本初の官営鉄道以来、115年の歴史に幕を閉じて分割・民営化され、北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物のJR7社が発足しました。
旧国鉄時代の巨額の累積赤字や労使関係の歪み、現場モラルの低下といった組織の再建は当時の国民の一大関心事でした。
4月2日 小泉八雲がアメリカで『Kwaidan(怪談)』を出版(1904年)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年にギリシャに生まれ、19歳でアメリカに渡りジャーナリストとなる。
1890年(明治23年)、40歳のときに来日。翌年に小泉節子と結婚し、のちに日本に帰化。松江中学校や東大などで英語・英文学を教えるかたわら日本文化を研究。
1904年(明治37年)4月2日、妻から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などに独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせた『Kwaidan(怪談)』をアメリカで出版しました。
4月3日 江戸幕府、無宿人の厚生施設「人足寄場」を設置(1790年)
1790年4月3日、火付盗賊改役の長谷川宣以が老中・松平定信に提案し、江戸石川島に人足寄場(にんそくよせば)が設置されました。人足寄場は江戸幕府が設けた無宿人収容所であり、無宿人や刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させ、その更生をはかりました。幕末まで存続し、明治維新により廃止されました。
4月4日 海賊フランシス・ドレークがエリザベス女王からナイトの爵位を受ける(1581年)
イングランド出身のフランシス・ドレーク(1540頃~1596)は、イングランドの海賊ジョン・ホーキンスの下で奴隷貿易に従事していた際にスペイン海軍の奇襲を受けたことから、生涯にわたりスペインに対する復讐心を抱く。
1577年12月~1580年9月、ドレークは世界一周にマゼランに次いで成功。航海中にスペイン船から得た莫大な利益を女王エリザベス1世に献上。1581年4月4日、ドレークは女王からナイトの爵位を受ける。
1588年のアルマダの海戦ではイングランド艦隊の副司令官としてスペイン無敵艦隊を撃破。1596年、ドレークは再び西インド諸島のスペイン植民地攻撃におもむいて病死。
4月5日 オランダの探検家がイースター島を発見(1722年)
1722年4月5日のイースター(復活祭)の夜、オランダの探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見。発見した日にちなみイースター島と名付けました。
この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイとその前で火を焚き、地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにしました。
4月6日 第1回近代オリンピック(アテネオリンピック)開幕(1896年)
1896年(明治29年)4月6日から4月15日まで、ギリシャのアテネにおいて近代オリンピックの最初の大会が開催されました。
近代オリンピックは、フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されました。
1896年アテネオリンピックの参加国数・参加選手数については諸説ありますが、国際オリンピック委員会は14ヵ国・241名としています。
4月7日 新型コロナ感染拡大により日本で史上初となる緊急事態宣言が発令される(2020年)
都市部を中心とした新型コロナウイルスの急速な感染拡大を受け、2020年(令和2年)4月7日、当時の安倍晋三首相は新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を初めて発令しました。東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の計7都府県が対象となり、4月16日に対象を全国に拡大しました。
4月8日 農夫が「ミロのヴィーナス」を発見(1820年)
1820年4月8日、エーゲ海南西部に位置するギリシア領・ミロス島で、耕作中の農夫が「ミロのヴィーナス」を発見。
ミロのヴィーナスは、前2世紀ごろ古代ギリシアで制作された彫刻の女性像。ギリシア神話における女神アプロディーテーの像と考えられています。その優美さと、失われた両腕のミステリアスな魅力で人々を魅了しています。
1821年からパリのルーヴル美術館に所蔵されている「ミロのヴィーナス」。海外では唯一、1964年に日本の国立西洋美術館と京都市美術館で展示されました。ビーナスを一目見ようと数百万の人々が殺到したといいます。
4月9日 最高裁、富士山頂は神社のもの(1974年)
富士山の山頂の所有権をめぐって、国と富士山本宮浅間大社が争っていた行政訴訟で、1974年(昭和49年)4月9日、最高裁が国の上告を棄却し、富士山八合目以上(登山道と旧富士山測候所の敷地を除く)が富士山本宮浅間神社の境内地であることを確認しました。
4月10日 タンボラ山が史上最大の噴火(1815年)
1815年4月10日、インドネシアのタンボラ山で大噴火が発生。記録の残る中では史上最大の噴火といわれています。
大噴火により、高さ3,900メートルあった山頂は2,851メートルに減じ、深さ約1,200メートルの大カルデラが生じました。噴火による死者は1万人にのぼり、その後の飢饉、疫病も含めて約10万人が犠牲になったといわれます。
また、半径約1,000キロメートルの範囲に火山灰が降り注ぎ、地球規模の気象にも影響を与えました。翌年、アメリカ北東部では7月に雪がふるなど異常な低温になり「夏のない年」といわれました。
4月11日 アインシュタインがラッセル=アインシュタイン宣言に署名(1955年)
1955年(昭和30年)4月11日、理論物理学者のアルベルト・アインシュタインは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名。
アインシュタインはその二日後に病気で倒れ、1955年4月18日に76年の生涯を閉じました。同年7月9日に彼が署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されました。
4月12日 ペンシルロケットの公開試射実験(1955年)
ペンシルロケットは、東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授が中心となって開発した全長23cmの超小型ロケットです。
1955年(昭和30年)4月12日、東京の国分寺市にて公開試射が実施され、ペンシルロケットは水平に発射されました。6日間に及んだ29機の試射はすべて成功を収め、本格的な飛翔実験に向けた貴重なデータを得ることができました。
この実験は日本の宇宙開発史における記念碑的な第一歩となり、その後ロケットは、ベビー型、カッパ型へと改良を重ねながら、現在のM-Vロケットへと進化しました。
4月13日 アポロ13号で酸素タンクが爆発(1970年)
1970年(昭和45年)4月11日、3度目の月着陸を目指してケネディ宇宙センターからアポロ13号が打上げられました。
1970年4月13日、機械船の酸素タンクが爆発。乗組員は酸素、水、電力の不足に見舞われることになりました。月着陸を断念し、司令船の電力消費を抑えるために、月着陸船のエンジンや酸素、電力を使うことで全員無事に帰還。この危機対応の鮮やかさにより「成功した失敗」「栄光ある失敗」などと称えられました。
4月14日 タイタニックが氷山に衝突(1912年)
1912年(明治45年)4月10日、タイタニックはイギリス・サウサンプトンからアメリカ・ニューヨークに向けての処女航海に出発。乗客乗員は合わせて2,200人以上。
1912年4月14日23時40分、タイタニックは北大西洋のニューファンドランド沖で氷山と衝突。水面下に長さ90メートルにわたって裂け目を生じ、16の防水区画のうち前部の5区画に浸水。衝突から2時間40分後の翌4月15日2時20分、タイタニックは轟音とともに2つに折れて沈没。救命ボートの収容人員は1,178人分しかなく、乗員乗客合わせて1,513人の犠牲者を出す。生還者は710人でした。
4月15日 主人を守ろうとして車にひかれた盲導犬サーブに保険金の支払いが認められる(1985年)
1977年に生まれたメスのジャーマンシェパード「サーブ」は愛知県名古屋市で訓練を受けて盲導犬になり、岐阜県でマッサージ治療院を営む男性を主人としました。
1982年1月、岐阜県の国道を歩いていたとき、雪でスリップした車が突っ込んできました。サーブは主人を車と反対方向に引っ張り、自分は車に体当たりしたのです。このとっさの行動によって主人はほぼ無傷でしたが、サーブは重傷を負い、左前脚を切断することになりました。
この事故がきっかけとなって「盲導犬は視覚障害者の身体の一部」であるとの認識が広がり、事故にあった盲導犬にも自賠責保険が支払われるように法律が改正されました。
そして、1985年(昭和60年)4月15日、サーブに自賠責保険の支払いが認められました。
4月16日 前震の28時間後、熊本地震の本震が発生(2016年)
2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震では、観測史上初めて同一地域において震度7の地震がわずか28時間の間に2度発生しました。
2016年4月14日21時26分、熊本県熊本地方を震央とするマグニチュード6.5の地震が発生。震源地に近い熊本県益城町では震度7の激しい揺れを観測。気象庁は直後の会見で「1週間は震度6程度の余震に注意を」と呼び掛けました。
しかし、28時間後の4月16日1時25分、同じく熊本県熊本地方を震央とするマグニチュード7.3の「本震」が襲い、同じ益城町で再び震度7を観測しました。14日の地震は後に「前震」と呼ばれるようになりました。
熊本地震の人的被害は、死者の合計が273人(うち直接死は50人)、負傷者2,809人、避難者数183,882人と発表されました。
4月17日 ピッグス湾事件 – 亡命キューバ人部隊が上陸(1961年)
1959年(昭和34年)1月のキューバ革命後、カストロ政権は社会主義的な改革を推進。産業を国有化してアメリカ企業の資産を接収したことから、アメリカは1961年1月にキューバとの国交を断絶。アイゼンハワー大統領はカストロ政権の転覆計画を秘密裏に進めます。その後、大統領に就任したジョン・F・ケネディはキューバ侵攻計画を承認。
1961年(昭和36年)4月17日、アメリカCIAの支援を受けた反カストロの亡命キューバ人部隊が、キューバのピッグス湾(コチノス湾)に上陸。3日間の戦闘の末、反カストロ軍はキューバ軍に撃退され、作戦は失敗に終わりました。
この事件後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言し、ソ連への接近を強めます。そして1962年10月、キューバへの核ミサイル配備をめぐって米ソが対立するキューバ危機が発生しました。
4月18日 明石原人?明石市で人骨を発見(1931年)
1931年(昭和6年)4月18日、アマチュア研究者だった直良信夫氏が兵庫県明石市の西八木海岸において、化石化した腰骨を発見。
現物は戦災により失われるも、1948年に東大の人類学者がこの骨を北京原人に相当するものと判断したため、一般に「明石原人」と呼ばれるようになる。
1982年、他の人類学者によって再検討が行われた結果、原人ではなく縄文時代以降の新人(ホモ・サピエンス)であるとされました。
4月19日 アメリカ独立戦争が始まる – レキシントン・コンコードの戦い(1775年)
1775年4月19日、アメリカ独立戦争の最初の戦い「レキシントン・コンコードの戦い」が勃発。
イギリス本国の植民地政策に反抗する植民地の愛国派は、マサチューセッツ湾植民地ボストン近郊のコンコードに武器、弾薬を集めていました。イギリス軍は軍需物資を押収するため、約700人の部隊を派遣。
1775年4月19日、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と参集した植民地民兵軍との間で戦闘が勃発。イギリス軍は273人の死傷者を出してボストンへ撤退。小規模な戦闘ながら、植民地側は独立戦争の初戦を飾りました。
4月20日 秀吉最後の豪遊 – 醍醐の花見(1598年)
1598年4月20日、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺において「醍醐の花見」を催しました。
秀吉は花見に際して700本の桜を植え、三宝院の建物と庭園を造りました。この花見の宴には、息子の秀頼、正室の北政所、側室の淀殿などの近親者を初めとして、配下の女房女中衆約1,300人が参加しました。参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調されました。
豊臣秀吉はこの5か月後に61年の生涯を閉じました。
4月21日 赤穂事件 – 浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかり即日切腹(1701年)
1701年4月21日(元禄14年3月14日)、赤穂藩主・浅野内匠頭(浅野長矩)が江戸城松の廊下で、高家・吉良上野介(吉良義央)に斬りかかる。この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされます。しかし、吉良に軽傷を与えただけで浅野は捕らえられ、即日切腹を命じられ、領地は没収されました。一方、吉良へのおとがめはありませんでした。
そして、1703年1月30日(元禄15年12月14日)、家老の大石内蔵助以下47人が吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとりました。この赤穂事件は忠臣蔵として世に喧伝されます。
なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は不明ですが、赤穂事件を扱った多くのドラマなどでは、吉良から要求された賄賂を浅野が拒否し、それに起因する吉良による嫌がらせを原因として描かれています。
4月22日 江戸三大大火 – 文化の大火が発生(1806年)
1806年4月22日、江戸三大大火の一つとされる文化の大火(丙寅の大火)が発生。
午前10時頃、芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木屋付近で発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)、増上寺五重塔を全焼。折からの激しい南風にあおられて火は北上し、木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋のほとんどを焼失。さらに神田、浅草方面まで燃え広がりました。
翌日の降雨によって鎮火したものの、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたといわれます。幕府は被災者のために御救小屋(おすくいごや)を建てて炊き出しを行い、11万人以上の被災者に御救米銭(おすくいまい)を与えました。
4月23日 明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝(1869年)
1869年(明治2年)4月23日、明治天皇が在位中の天皇として初めて伊勢神宮に参拝。皇室の祖先とされる天照大神がまつられる伊勢神宮に長期にわたり参拝されなかった理由については不明。
なお、1868年(明治元年)、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のために神道国教化の方針を採用。それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するために神仏分離令を発しました。伊勢神宮の玄関口である宇治と山田でも109カ寺が廃寺となり、さらに明治天皇の行幸に際しては、その道筋にある寺を撤去せよとの命令が出て、宇治山田に残った寺の数はわずか15カ寺となりました。
4月24日 八重山地震で30メートルの大津波が発生(1771年)
沖縄が琉球王国だった1771年4月24日の午前8時頃、石垣島近海を震源とするマグニチュード7.4の八重山地震が発生。
地震の揺れによる被害はわずかであった一方、最大30メートルの大津波が発生したことにより、八重山・宮古諸島で死者約12,000人、家屋流失約2,000戸という大惨事になりました。
石垣島ではこの津波で運ばれたとされる岩が「津波石」と呼ばれ、島の各地に存在しています。
4月25日 米墨戦争が勃発 – メキシコからカリフォルニアを手に入れる(1846年)
1846年4月25日、アメリカが太平洋岸まで領土を拡張する過程で、メキシコとの戦争が勃発。アメリカの勝利により1848年2月に戦争が終結。敗北したメキシコは、現在のカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコの領土を1500万ドルでアメリカに割譲。これによりアラスカを除くアメリカの大陸領土はほぼ完成しました。
しかし、新しい領土を自由州にするか奴隷州にするかをめぐり、アメリカの北部と南部間の紛争は激化の一途をたどり、13年後の南北戦争(1861~1865)へとつながります。
4月26日 ナチス・ドイツが秘密警察ゲシュタポを創設(1933年)
ナチス政権樹立後の1933年4月26日、ドイツ・プロイセン州の秘密警察としてゲシュタポを創設。1936年にはドイツ全土に活動範囲を拡大させました。
第二次世界大戦中はドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における反ナチス派やレジスタンスに対する暴力的な弾圧、ユダヤ人狩りなどを行いました。
4月27日 ハワイのホノルル国際空港がダニエル・K・イノウエ国際空港に改称(2017年)
2017年(平成29年)4月27日、ハワイのホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に改称されました。
新名称はハワイ・ホノルルで生まれた日系アメリカ人のダニエル・ケン・イノウエ(1924~2012)の名前にちなみます。
ダニエル・イノウエがハワイ大学在学中の1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が行われました。彼はアメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、日系人部隊の第442連隊戦闘団に配属されました。欧州戦線で活躍し、負傷し右腕を失った彼は、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ軍からも英雄としてたたえられました。
1954年にハワイ議会議員に当選。1959年にはハワイ州選出の連邦下院議員に当選し、アメリカ初の日系人議員となる。1963年に上院議員に初当選、以降49年にわたり上院議員の座にとどまり、米国民主党の重鎮として活躍。2012年12月に88年の生涯を閉じました。最後の言葉は「アロハ(さようなら)」でした。
4月28日 屋根が吹き飛び乗務員が飛ばされる – アロハ航空243便事故が発生(1988年)
1988年(昭和63年)4月28日、アロハ航空のボーイング737型機がヒロ国際空港からホノルル国際空港へ飛行中、機体の屋根の一部が吹き飛び、乗務員一名が機外へ飛ばされ死亡。幸い操縦が可能であったため、マウイ島へ緊急着陸。残りの搭乗者93名は奇跡的に生還を果たしました。
事故原因は、金属疲労と腐食により、機体の鋼板の継ぎ目が剥がれたことによるとされています。この事故を受けてアメリカでは全機疲労試験が義務化されるなど各種法制度が強化され、経年機の安全対策が進みました。
4月29日 植村直己が犬ぞりによる単独北極点到達に成功(1978年)
1978年(昭和53年)4月29日、冒険家の植村直己が犬ぞりによる単独での北極点到達に成功。北極点に単独で到達した最初の人間となり、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾りました。
植村直己は、1970年に世界最高峰のエベレストに日本人として初めて登頂。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となりました。1984年、冬期のマッキンリー(デナリ)に世界で初めて単独登頂に成功しましたが、下山途中に消息不明となり、43年の生涯を閉じました。
4月30日 アメリカがナポレオンからミシシッピ川西岸のルイジアナを買収(1803年)
1803年4月30日、アメリカがフランスからルイジアナを買収する条約が締結される。
アメリカ第3代大統領トーマス・ジェファーソン(1743~1826)は、物流の拠点としてフランス領の街ニューオーリンズを領有したいと考え、フランスに買収を提案。当時、フランスのナポレオン(1769~1821)はイギリスと敵対しており、イギリスがカナダからルイジアナに侵攻した場合、防衛は無理であると考え、フランス領ルイジアナ全域を売却すべきと結論。ルイジアナを破格の1500万ドルでアメリカに売却することを決定しました。
当時のフランス領ルイジアナは主にミシシッピ川西岸の広大な領地で、現在のルイジアナ州だけではなく、アーカンソー、オクラホマ、ミズーリ、カンザス、アイオワ、ネブラスカ、サウスダコタ、ノースダコタ、ワイオミング、モンタナなどにまたがりました。アメリカの領土はこの買収により中西部に拡大し、約2倍の大きさになりました。